致命傷

日々のこと、映画や本やマンガのこと、創作関連のこと。140字に書ききれなかったような諸々を書き連ねて行く所存です。

Xを打ち明けること。

Xと仮構する。

Xを打ち明けた途端、目線が変わる。規定される。言葉でどう言い繕おうと、打ち明けられた相手はその態度、言葉、目線、思考、意思が規定される。少なくとも私の周囲の人間は、規定される人間だ。

私が尊敬している人たちは、規定されないだろう。

何が違うのだろう。私が尊敬している人たちは、私の周囲の人間のように、Xというマイノリティーに対する理解や周辺の議論について肩肘張って真面目腐った表情で語ったりしない(私の理想化だろうか? いや、いずれにしても、彼らのように真面目腐りはしない)。

きっと、笑うのだ。

悪い意味ではない。笑うことができるのだ。変に表情を硬くすることもなく、決して馬鹿にするという文脈でもなく、笑い話に出来たり笑顔でその話題や周辺の話題を口に出来る、気軽さがあるのだ。何もマイノリティーに関する問題を蔑ろにしているのではない。

私が間違っているように感じ、不快感を抱くのは、彼ら(私の周囲にいるようなある種の人々)がXについて話す時には、必ずマイノリティーや差別の問題といった深刻さに配慮する、という心性や思考が付き纏い、態度や表情、言葉の端に表れるように感じることだ。考えすぎなのだろうか?

だが、私は気に入らない。

思いやり、配慮、理解を示す、差別をしない……薄汚い偽善の臭いが立ち込めている。無論、昔(今もあるだろうが)のようなひどい差別が減少しつつある社会であることは、よいことだ。しかしながら、だからといって今の配慮やカンヨウが漂う空気がよいということはない。ひどく不愉快で、偽善を感じるのだ。

私は、Xについて笑って話したいのだ。自虐したり笑いの種にしたりされたりもしたい。そんな気軽さが欲しいのだ。当事者でもない人間が差別語だなんだといって言葉狩りをして浅慮に言葉や会話をすり減らす様は、この上なく不愉快でグロテスクだ。正義漢のフリなのか知らないが、私はそんな偽善者どもを最大限嫌悪している。糞食らえだ。

だから私は、Xを打ち明けたくない。不愉快だ。そもそもが打ち明けるという言葉遣い自体が大仰だ。

……理想主義的なのだろうか? いや、もしもそうだったとしても、理想がなくては進む道は見えないのだ。私の理想は、笑ってXを話すことが出来る社会だ。