致命傷

日々のこと、映画や本やマンガのこと、創作関連のこと。140字に書ききれなかったような諸々を書き連ねて行く所存です。

日記 20/2/17(月)

のべるちゃん公式企画の作品や課題小説をちょっと書いたりしながら朝を迎える。のべるちゃんに関しては、一応ほとんど完成はしているもののまだどうしても出来に満足いかなかった。

昨夜から今朝にかけて、幾つかの異なる観念が浮かんでは沈み、自罰的な気分が強まっていた。左手首も傷だらけだった。公開されているのべるちゃん公式企画参加作品のコメント欄を少し回る。よく憶えてはいないが、自分の不出来による劣等感、不全感、そういった自分中心の思考や比較しか出来ない悪癖に対する罪悪感や自己嫌悪、うまく言語化できないけれど、数日前から堆積していたそんな色々な感情がない混ぜだった気がする。

少しだけ泣いた後、左手はたしか昨日切っていてスペースがあまりなかったため、右手をカッターナイフで切る。安物だが新調した物だったため、よく切れた。1mmにも満たない浅い溝が数本刻まれる。ちょっと気持ち悪かったけど、わずかに充たされる。傷は今もまだ痛い。

小説に軸足を移していこうか、と考え始める。どうせまたつまらないことでゴミ量産機だのとのたまって比較を始めてろくに努力もせず絶望感に酔い始めるので堂々巡りだろうが。気持ち悪い。

昼頃まで少し眠る。気分の描き込みが塗り潰されて、抽象的になったような感覚。まだ気分は沈んだまま。

たしかこの辺りでえいやっとのべるちゃんで企画参加作品を公開する。

ヤケ食い的に金がないのにうーばーいーつで散財。寒かったし。ネフリで「イド:インヴェイデッド」を観ながらマクド。特別美味しくも不味くもない味。のべるちゃんで作ろうとずっと考えていた長編「次代人類」を小説で書こうかな、とぼんやり考えていた。

洗濯機を回したりネットで時間を浪費。今までのべるちゃんで公開した作品()ってそういえばひとつ残らずゴミみたいな出来のものしかなかったのでセンスとか才能とか努力とか色々欠けてるんだろうなと考えるなどする。19日までに提出しなければならない課題小説(テーマは歴史小説)を書こうとしてみたりしなかったりするが、書けない。自分の書くものすべてが馬鹿馬鹿しいものに思えてくるなどする。ふと思いついて、壁にもたれかかってベッドに座り、大森靖子やくしまるえつこを流しながらブログに支離滅裂な駄文を垂れ流し始める。頭がずきずきする。おわり。

気分変調症

もう3ヶ月ほど大学に行けていない。そのことに関連して、最近は大学の学生相談室を利用させてもらっている。その相談員の方に、精神科校医の先生との面談を勧められ、先日行ってきた。

結論から言うと、気分変調症の可能性があるとのことだった。抑鬱状態はあるが、鬱病かどうかの判断はグレー。鬱病の一歩手前といったところらしい。加えて、幼少期の場面緘黙症。さらに、社交不安障害の要素も関係はしているかもしれない、とのこと。ただ、色々な要素が複合していて、一概にこれだとは明言できないらしい。

カウンセリングはこのまま継続し、必要であれば薬に頼るという選択肢もある、と。ただ、基本的にはカウンセリングを主な療法とし、より言語化を図ることができれば、という話だった。また、今までの家庭環境のことを触れられ、それが現在の状況に影響している可能性について言われた。

自分では平々凡々な家庭だったと思っていたので、そのことが少し意外に感じられた。病名を明示されたことについては、しばしば色んな人の体験談で読むように、ある種安心できたような気もする。しかし、医学的治療だとか、薬の処方だとか言われると、どうしても怖くなってしまう。それは精神科の薬に対する恐怖というより、これが病として取り扱われることに対する当惑、と言うべきだろうか?

ただ、先生の方でも、必ずしも治さなくてはならないわけではない、という趣旨のことを仰っていた。これには深く共鳴できた。元来中学生のころから、約5年間もこれをやってきたのだから、今更治すだなんだと言われてもお笑いである。ただ、時々本当に自殺してしまうのでは、と思う時があるのも事実であり、実際問題として大学に行けていない上、身の回りのことなど、自分の生活さえまともに営めていないのだから、何かしらの対応は取らねばならないのだろう。

先述の通り、この生きづらさに名前が付いたことに、安心はできたかもしれない。ただ、すべてを病気の所為にして甘えきってしまうのでは、という不安に苛まれている。これが病気の所為なのか、自身の無気力や自堕落の所為なのか、と。そういう趣旨の質問を最後に発したはずなのだが、先生がどのように答えてくれたのか、どういうわけかよく覚えていない。少なくとも、先の不安を増長させるような答えではなかったような気がする。

夢から醒めて、泣いてしまうことが時々ある。その時は、何かを思い出して泣いているのだけれど、特定のエピソードや記憶によって、というより、感情を思い出して辛くなって泣いている、と言う方が近い気がする。そのため、こういうことがあって、それを思い出したので辛い、と明言することはできない。けれども、感情には記憶が伴っているはずで、薄ぼんやりとその記憶が感じられるような気もしている。だがやはり、それを明確に言い当てることはできない。ただひたすら、惨めで、無力で、憎くて、悔しくて、殺したくて、不快で、死にたくなって、ずっと嗚咽し続けている。何の辛さなのか、よく分からない。ただ、生きるのが、生きているのが辛い。何の記憶なんだろう。

無価値な生

人に好かれたいと常々思う。多かれ少なかれ誰しも持つ欲求だろうが、自分には誰かに好かれる要素がない。自分さえ肯定できない人間が、他人に肯定されるなどという都合の良い幸運に恵まれるわけはない。常に自分だけを見、他人を顧みず、自らの不幸ぶりを喧伝して回る輩は一生涯他人に好かれることはない。浅ましい利己心は簡単に見破られ、軽蔑の余りに呆れ果てて誰も見向きもしない。また、もし声高に同情を誘うまでしなくとも、自分をとことん否定するしかしない人間に他人は魅力を感じない。だから誰もその存在に気がつかず、気がついても目の中のゴミくらいにしか思わない。どちらにせよ、往々にして利己性の臭気からは逃れられない。醜さは目線を逸らさせ、鼻をつく臭いは人の足を遠ざける。人に好かれないことで一層自己否定を強め、醜怪さは増していく。当然それにつれて人の足はみるみる遠ざかっていく。その周囲にはもう誰一人いはしない。生きていても死んでいても、誰にも知られない。

「オンリーワン」だとか「個性」だとかと世間は言う。だが、「世界で一つだけの花」であるには「花」でなければならず、「石」では商品価値はないのだ。建前ではあたかもどのような人間でも平等に価値があって、生きるに値すると謳っているように思える。だがその本音は、あくまでも人間とは人材であり、資本主義社会に於いて役割を発揮出来なければ生きる価値ナシの烙印を押される。果たして今の日本社会は、相模原の事件のような論理に対して有効な解答を示せるのだろうか。何の生産性もない人間の生きる価値とは何なのだろう。生きる価値、などという問い自体、倒錯した設問ではあるが、如何にしてその生を肯定出来るというのか。自分には分からない。自分なんかが生きていてもいい? 死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。死んだ方がいい。

Script少女のべるちゃんで『Xanadu -ザナドゥ-』を投稿しました。

Xanadu -ザナドゥ-』

https://novelchan.novelsphere.jp/33566

f:id:logos_pokoten:20191129185027j:image

 

未来世界の話。決まった主人公はおらず、幾人かの視点を同時並行的に描いていく感じ。

もともとプロットやメモ書きはなくて、そのままのべるちゃんを開いて頭に浮かんだままスクリプトを組んでいった作品。それにしては中々面白くなったかな、という印象。こういう創り方をした作品は幾つかあるけど、以前よりも作品の質が向上できているように思う。話作りがうまくなった、ということかな。

ちなみに、創り始めるきっかけになったのは銀魂の「半か丁か」を観ていたから。別に話として影響を受けたわけではないが、発想を促されたということかな。

その発想に、自分が以前書いた短編小説の世界観を組み込んだ形。その小説に出てくる登場人物も、本作には登場させている。

 

 『彼方の闘志』

https://ncode.syosetu.com/n3366fo/2/

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889952340/episodes/1177354054889952536

 

勢いで創り始めた作品なので、続けるかどうかはまだ不明。また勢いづいてきたときに創り出すかもしれない。「次代人類」もまだだし。

家族の話

家族のことを考えるにつけ、血は争えないな、と感じる。

祖父に先立たれ、祖母は一人で暮らしている。子供の頃から、祖母の家に遊びに行くといつもテレビがついていた。人の声が聞こえていないと寂しいのだと言っていた。今になってその気持ちも分かるようになったと思う。また、テレビ以外に楽しみがないのだ、とも。今でも「寂しいから近況を教えて」「帰る予定はあるか」という内容のメールが来る。祖父のことや家庭のことを話し、泣いているのをよく目にした。ずっと子供のとき、それを見ても何も感じていなかったことを覚えている。今でもやっと少し考えるようになった程度で、その辛さを全然は理解していないだろう。

自分が小学生の頃に父と別れ、母は自分と姉の二人を育てることになった。養育費は支払われているようだが、経済的に恵まれているとは言い難かった。両親が親しく話す様はついぞ見ることなく、記憶に残っているのは母が父に嫌味たらしく小言や文句を言っていた光景だけだ。祖母に聞いた話だが、母は三人姉妹の末っ子で、優秀な姉に対して劣等感を抱いていたそうだ。母は大学へは行かず、他の二人は進学した。二人は英語教師や看護師の職に就いたと記憶している。母は専業主婦で、離婚後はアルバイトを幾つか回り、今は自転車店で働いているそうだ。昔、中学生の頃だったと思うが、自宅の棚に抗鬱剤睡眠薬が置いてあるのを見つけたことがあった。これも同じような時期だったかと思うが、母はパワーストーンやパワースポット、スピリチュアルに入れ込み始めた。ところで、宗教は弱い人の生きる力になると聞いたことがある。当時は軽蔑し、馬鹿にしていたが、今はその心情も理解できると思う。

姉のことはよく知らない。もう何年も口をきいていない。専門学校を出てからバンド活動を始めたが、先日活動を休止したと母からLINEが来た。幼稚園児や小学生のときはよく一緒に遊んでいたはずだが、よく泣かされてもいたそうだ。今はただ、心から死んでほしいと願っている。中学生の頃はよく殺そうと思って、脳内で何度も何度も殺すシミュレーションをしたものだが、今はせいぜい事故か病気か災害かでもって死ね、という心持ちだ。

もしかすると関係はないのかもしれないが、いとこも常習的に自傷行為をしていた、と母や叔母から聞いた。そういった話を聞くにつけ、鬱病の遺伝的要因のことを思い出す。別に自分は鬱病なわけではないとは思うが、やはり家族には似たものを感じてしまうものだ。そんなことを偉そうに語りながらも、家族のことを慮ることもしない。信用することも、心を開くこともしようともしないのだ。親不孝だとか薄情だとか思えるほど人も出来ていない。家族のことを真剣に考えたり、慮ったり出来る人たちのことが分かれない。それほどに自己中心的で良心の欠如した、人品骨柄程度の知れた人間なのだ。家族の話をしながら、最後には結局自分の話に帰結させてしまう浅ましい利己性に、呆れもしない。

引籠生活 1ヶ月余日目

といっても一切家から出ないわけでもなく。聞くところによると、最近の(?)引きこもりはコンビニや本屋など、生活必需品や趣味のためなら最低限の外出をする人が多い、となんかのニュース番組で言ってた。

とはいえハードルは高くたまにではあるが、スーパーやら本屋やら映画館やらは行ける。大学はもう1ヶ月以上行けていない。留年は覚悟済み。たぶん。親には言っていない。自殺願望が強くなりがちだが、最近は現実逃避しまくりでむしろあまり自殺企図を考えたりはしない。静かになってしまうと、今の状況について考えてしまうので怖く、必ず音楽やYouTubeの動画を常に流し続けている。本や漫画を読むにしても音楽を流し続けている。今もYouTubeを観ながら書いている。だが音楽は、神聖かまってちゃん大森靖子さんはそこまで聞いてもいない。ただ、近頃自殺未遂をする夢をよくみる気がする。

創作も自分が創りたいやつに関してはまあ創れる。課題小説とかは微妙かな。今はのべるちゃんで変なのつくってる。長編のやつでなく。

あんまブログ書けないのは現実をみようとしていないからである。自省というか省察が足りてない、見ようとしないから阻まれている。真面に見てしまうと落ち込むし。対処したくないし。死にたいし。今はただ耳と目を閉じ口を噤んでひたすらエンタメを消費し続けている日々。そのうち、直視しないと。