致命傷

日々のこと、映画や本やマンガのこと、創作関連のこと。140字に書ききれなかったような諸々を書き連ねて行く所存です。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が好き。あと『パンズ・ラビリンス』の話。

さっき観ました。セルマはミュージカルが好きで、辛くなった時や限界が来た時には、歌い、踊り出す。現実が辛ければ辛いほどその渇望は強くなる。セルマは真面目で、誠実で、不器用で賢く立ち回ることができない。だから他人に利用され、誤解され、限界状況へと追い込まれていく。

言葉で切り抜けることもできない。しかし、セルマはミュージカルがこの上なく好きだった。いつだってセルマはミュージカルを求め、さいごのさいごまで、歌い続けた。

ストーリーとしては確かに辛い。鬱展開と言われる意味もわかる。だが、この映画を観ると(これはある人が言っていたことでもあるが)勇気が出る。セルマは、さいごまで強かった。

ところで、この映画を観ている途中、思い出した映画があった。ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』だ。オフェリアは妖精に導かれ、迷宮の世界、パンズ・ラビリンスを冒険する。ラストシーンの解釈は観客に委ねられている。しかし、ここにもやはり勇気があるのではないか。

ダンサー・イン・ザ・ダーク』も『パンズ・ラビリンス』も、いわゆる鬱展開、バッドエンドと言われている作品だ。だがその捉え方は、やはり安易であろう。どちらの映画からも、私はある種の勇気を貰った。

社会学者の宮台真司さんは、アートとは深く傷つけることだ、と言っていた。勇気を貰った、とはいえ、苦しく、辛い映画であることは事実だ。私は深く傷つけられた。私は、こんな映画が観たかった、こんな作品が創りたかったのだ。

消えたい

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死にたい、自殺したい、消えたい。個人的にはそれぞれ意味や感覚の異なった言葉。僕はすべての感覚を抱いたことがあるけど、今は”消えたい”だと思う。

何回も書いてるけどとかいう口上も不必要だとは思うけど僕は自分自身が色んな意味でのゴミクソ野郎だって認知があって、まあたぶん認知の歪みとかあるんだと思うけど実際ある程度クソだとは思ってる。昔はもっとクソ野郎で死んでた方が良かったような道端の糞尿以下の存在だったと思うけど、結局クソはクソにしかなれないし今も変わってないクソだと思う。

言葉が汚すぎる、気がするけど…、汚いのは僕の存在なので。とにかく、僕は何も出来ないし自分勝手で思いやりなんていうのは口先だけで実際の行動には反映できない。気が利かない、他人の意図を読み取れない、頭の回転がひどく遅い、伝わるように話せない。その上ネガティブ過ぎてキモいし顔も挙動も行動も思考も言葉も話し方も声もぜんぶキモい。

他人が当たり前に出来ること何も出来ないから、思いやりとかなんとかっていうのも思ってても全然うまく出来ない。頭の回転遅いから咄嗟に正しい判断出来ない。思わず反射的に行動しちゃって後悔したり迷惑かけたりする。他の人は当たり前にやってるのに。譲るタイミングとか誰にとか誰かが落とした物拾ったりとかエレベーターでボタン押すとか、やろうと思ってるのに全然うまく出来ない。何でなんなら小学生ですら出来るような当たり前のことを出来ないんだろ。頭のどこかおかしいのかな。なんか。すぐそれで泣きそうになったりすぐ泣いたりするし。それも気持ち悪いし。

人と関わろうとしたり関わる機会があっても、いつも相手のことを傷つけたり困惑させたり不愉快にさせたりする。それしかない。いつも。だからこんなクズ他人といっさい関わるべきじゃないんだと思う。関わった途端傷つけたり不快にさせたり時間労力浪費させてしまったり。元からゴミなのに関わろうとすると他人を傷つけるようなクズに他人と関わる資格はない。だから僕はもう他人と関わるべきじゃない。とても関わりたいし好きなこと話したり一緒に遊んだり本音話したりしたいけど、こんなのはそんな資格権利あるべきじゃない。それにこんなやつ誰も関わりたいなんて思わないし好きになんてならないし気持ち悪いだけか興味抱くようなとこ一切ないクソつまんない空気みたいなやつだし。だから自殺したいって思ったけど死んで迷惑かける資格なんてない。死ぬ価値もない。生きる資格も価値もない、死ぬ資格も価値もない。だから消えたい。誰からも見えなくなって誰からも忘れられて消えて無くなりたい。でも出来ないもんな。したくないもんな。でもそう思うのもクズ。生きたいとか関わりたいなんて思うべきじゃない、思ってはいけない。

自殺したいな。

奉死

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進撃の巨人』のクリスタ・レンズ(ヒストリア・レイス)が個人的に感情移入が出来て好き。例えば、雪山で訓練中のヒストリアとユミルのエピソードがありました。

ヒストリアは、動けなくなった同期のダズを助けようとしている。しかし、ヒストリア一人の力ではダズを運ぶのが難しく、遅れてしまう。一緒にいるユミルは、このままではダズもヒストリアも死ぬだろうと忠告する。しかし、ヒストリアは、ダズは助けるからユミルは先に行って、と言って聞かない。

しかしユミルは、なぜ私に助けを求めない? ダズを助けようとして死ぬことで、良い人だと思われたいんだろう、と指摘する。

僕もこのヒストリアの心情が分かる気がします。

ここから自分語りですけど、僕は何の取り柄もないどうしようもないクソみたいな人間なので、何か他人のために行動しなければ誰からも価値ある存在だと認められない、生きているということを認められない、という人生の感覚があります。

だから僕は、他人のために死ねる機会があったなら、喜んで死にたい。僕があの場面のヒストリアだったら、ダズを助けるために死にたいです。

でも同時に、その考えは間違いだという認知もあります。人を自殺の──言い換えれば承認のための──道具に使っているからです。

自殺までしなくとも、単に他人のために行動することでも、自分が認められたい、良い人だと思われたい、という動機で行動してしまっているという点で、その行動は非道徳的だと考えます。

これは、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの道徳哲学から影響を受けたものです。カントは動機主義といって、行為の善悪を決定するのは行為の結果ではなく動機であると言ったそうです(所詮付け焼き刃なので間違ってるかも……)。

即ち、一見して正しい行為でも、行為者の動機が、自己利益のためであったりすれば、たとえ良い結果をもたらそうとも、その行為は非道徳的行為である、ということです。

まあその話はもうええか。

詳しくはググったり本読んだりしてくだちい(お勧め→中島義道『悪について』)。

それで、だから僕は、他人に認められたいという動機で他人のために行動することも、間違いだと考えているんです。

ならどうすればいいのか。

僕は出来る限り、他人の人生や心情の移り変わりに対して想像力を働かせ、自己利益や自己満足の不純物を混ぜないようにと心がけながら行動するように、と思っています。

でもこれは実際のところほとんど不可能で、どうしても不純物が混じります。自分が正しい行いをしていて、善人なのだ、などと思ってしまうと、もう非道徳的。自分が正しいなどと思った瞬間にもう非道徳的になってしまうかもしれません。

自分が間違っていると思った人間を批判、或いは批判的な感情を持った時点で非道徳的かもしれません。カントは自らの厳格主義の道徳理論について、次のようなことを言っていました。「汝の意志の格率に従って、単に手段としてではなく、常に同時に目的として行為せよ」

こんなようなことだったと思います。目的としての人間性の定式と呼ばれるものですね。

要するに、“常に同時に”であって、”常に”は不可能であるということは、カントも分かっていたということでしょう。

あれ、何の話でしたっけ。

さっきも言いましたが、僕には何の取り柄も褒められるべき長所もいっさいありません。誰か他の人より優れているところも、いっさいありません。勉強も出来なければ運動も出来ず、会話も下手で頭の回転も遅い。知識もなければあっと言わせるアイデアも思い浮かばない。自己中心的で他人に対する思いやりもない。その上気持ちが悪いほどにネガティブ思考で構ってちゃん。

他人に好かれる要素もいっさいなければ、嫌われる要素はふんだんに盛り込まれていますね。

僕は他人に好かれることも唯一の才能で突き抜けることも出来ないにもかかわらず、他人に認められたいと思っています。その欲求自体が間違いなのかもしれませんが、僕は打開策をいくつか見つけてしまったのです。

その一つが、自殺です。自殺すれば唯一になれる、などとよく分からないことを考えつきました。でもどうでしょうね。たしかその時に、今から外に出てどこか高い建物に登って飛び降りることを想像しましたが、リアルな想像が出来ませんでした。

これでは自殺しないな、とその時思いました。自殺する勇気もない中途半端なクズでした。

もう一つの打開策が、他人に奉仕することです。才能も魅力もないけれど、他人のために行動することなら、まだ出来るのではないか、と考えました。

その後に先述の様々なことを考えました。二つの打開策を合わせて、他人のために自殺するというアイデアもありましたね。却下しましたが。あまりにも自己中心的ですから。機会もないですし。

結果今の僕は、なるたけ他人に対する想像力を鍛えようと心がけながら、それでいて自己利益は糾弾しつつ、行動しようとしています。こんなことをここに書いている時点で非道徳的やもしれません。まあどうせ誰も読んでないし、自分のために書いているからいいですよね。

どこか根本的な誤謬を孕んだ欲求を秘めながら、生と死の狭間をふらふらとよろめいて生きています。ふとした瞬間に僕はまた死の淵へ落ちてしまうこともあるかもしれません。その時はまあ仕方がないです。なるべく自らのクズさを抑えつけながら、ぎりぎりで生きて、死にたいです。いつ死ねるのかな?

Xを打ち明けること。

Xと仮構する。

Xを打ち明けた途端、目線が変わる。規定される。言葉でどう言い繕おうと、打ち明けられた相手はその態度、言葉、目線、思考、意思が規定される。少なくとも私の周囲の人間は、規定される人間だ。

私が尊敬している人たちは、規定されないだろう。

何が違うのだろう。私が尊敬している人たちは、私の周囲の人間のように、Xというマイノリティーに対する理解や周辺の議論について肩肘張って真面目腐った表情で語ったりしない(私の理想化だろうか? いや、いずれにしても、彼らのように真面目腐りはしない)。

きっと、笑うのだ。

悪い意味ではない。笑うことができるのだ。変に表情を硬くすることもなく、決して馬鹿にするという文脈でもなく、笑い話に出来たり笑顔でその話題や周辺の話題を口に出来る、気軽さがあるのだ。何もマイノリティーに関する問題を蔑ろにしているのではない。

私が間違っているように感じ、不快感を抱くのは、彼ら(私の周囲にいるようなある種の人々)がXについて話す時には、必ずマイノリティーや差別の問題といった深刻さに配慮する、という心性や思考が付き纏い、態度や表情、言葉の端に表れるように感じることだ。考えすぎなのだろうか?

だが、私は気に入らない。

思いやり、配慮、理解を示す、差別をしない……薄汚い偽善の臭いが立ち込めている。無論、昔(今もあるだろうが)のようなひどい差別が減少しつつある社会であることは、よいことだ。しかしながら、だからといって今の配慮やカンヨウが漂う空気がよいということはない。ひどく不愉快で、偽善を感じるのだ。

私は、Xについて笑って話したいのだ。自虐したり笑いの種にしたりされたりもしたい。そんな気軽さが欲しいのだ。当事者でもない人間が差別語だなんだといって言葉狩りをして浅慮に言葉や会話をすり減らす様は、この上なく不愉快でグロテスクだ。正義漢のフリなのか知らないが、私はそんな偽善者どもを最大限嫌悪している。糞食らえだ。

だから私は、Xを打ち明けたくない。不愉快だ。そもそもが打ち明けるという言葉遣い自体が大仰だ。

……理想主義的なのだろうか? いや、もしもそうだったとしても、理想がなくては進む道は見えないのだ。私の理想は、笑ってXを話すことが出来る社会だ。

ねむれない

というか寝ない。夜更かし。

不眠症とかじゃなくて最近ずっと2時とか3時に寝るのが平常になってるんですよね。

なんでかなーって思ってて。単純にネットとか漫画読んでて気づいたらーってのもあるんですけど。気づいたのがあって。

やんなきゃいけないことがあるんですよ。誰でもありますよね。課題とか何か書かないととか。で、僕は小学生の頃からずっと怠け者で宿題とか全然やんなかった人だったので。今もですが。

特に中学が一番ひどかったんですが。それはよくて高校とかだって夏休みの宿題最終日までやらなくって、で、最終日にやろう!って言いつつ結局やらないっていうw

まあ要するに劣等生で、やるべきこと先延ばしにしてしまう習慣がついてるんですよね。それで何の話だっけ。

ああそう、で、やんなきゃいけないことを夜遅くまで先延ばしにしちゃって。それでいて、やんなきゃいけないことをそんままにして寝られないんですよね。スッキリして寝たいんですよ。でもやらない!めんどくさい!ネット!ツイッターYouTube

で結局すごい遅い時間になって、ここまで来たらもう無理だろうなあ寝たほうがいいなあ明日やろうつって寝る。超無駄な時間。今まで何のために起きてたんだよ!ってなるんですよ。いっつも。今も!!

引っ越しの書類書かなきゃなのに!何やってんだ僕わ!!(しょうもないブログ書いてんなよ!)

ほんと詮無いつまんないことに無駄に縛られていろんなこと浪費してってますよ。無駄の多い人生だなあ。

もう寝ようかなあ。いま深夜3時半回ってるんですよー。書類書けてないし。こーゆーどうでもいい習性なおんねえかなって思ったりすんですけどなおそうとしないところ大して思ってないんでしょうねえ。怠け者だからぜんぶダメなんでしょうね。自業自得だー。

創作も遅いし…。

たぶんこーゆー自分も好きなのかなあ。いかんなあ。

いやホントに。結構ダメだ、これ。

短編集投稿しました。

タイトル通り。カクヨム小説家になろうにて、『11.63 拾う(漂流インレコ)』という題名で短編小説集を投稿しました。

 

カクヨム

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889952340

なろう

https://ncode.syosetu.com/n3366fo/

 

まだ三編までで、書けたら随時追加予定です。

表題作含め、前二編がSF、後一編は舞台は現代で、男子中学生が主人公の短いお話です。

大学の課題で書いた小説です。

一応ノワールとか銘打っていて、気づいたらどの話も暗くなってたから、ノワールってことにしとこう、って経緯ですね。こういうことは言うべきじゃないですが(じゃあ言うなよ!)、稚拙かもしれませんが読んでください<(_ _)>

すごい時間が余っていて心の余裕があって読んでやるよ!って思ってくださる方がいれば、ぜひ読んでください。

コメントとかいただけると泣いて喜びます。ただの中傷でなく真っ当なコメントであれば批判コメントもありがたく思います(エラソー…)。

そういえば、また大学の課題で、次は5000字以上書いてこい!って言われてるんですよねえ…。まあアイデアはないでもないので頑張りますよお…。

それから、「Script少女のべるちゃん」の方で公開できれば、と思っている作品の方も、現在鋭意制作中です。仮題『次代人類』。厨二感すごいですが。厨二全開の作品になってます。なるはずです。

まだスクリプトにさえ辿り着けていない上、仮題小説もあるのでもうちょいかかりそうですが…。とにかく構想中です。

以上、小説投稿したよって話と誰得現状報告でした。

 

下手

自分でやらないとしっかりしないとって責任感とか他人にどう思われるかって恐怖心とかで自分でやろうとする。でも結局人並み以上に何も出来ないし結局子供だし役立たずでしっかりしないととか考えたのが単なる我が儘自己中で他人に迷惑かけて余計な手間取らせるだけ。それがもう分かってじゃあもういいやってまたすぐ諦めて拗ね出すし気持ち悪い。でも事実。何も出来ない。普通の人が当たり前に出来ることがまったく出来ない。思えば何なら幼稚園の頃から他人に出来ることが自分には何も出来なかった。まだまだ短い人生だけどそれでもまだ一度だって優れてることなかった。いつでも誰よりも何も出来ないし誰かよりも出来ることがまったくなかった。いつもいつもなぜそんな当たり前に出来るのか全然分からなかった。こういう糞みたいなことでいっつもうじうじ考え出して勝手に落ち込み出すのも気持ち悪いし下らない。上手くなりたいとは思うけどせめてそんな贅沢言わないにしてもせめてノーマルモードにして欲しかったと思う。だって多分小学生とか中学生の方がよっぽど万事上手く出来る。存在が下らないし価値ないし怖い。こういう思考自体がさらに悪循環で助長する。怖くてビクビクして言葉が詰まって何も言えなくなって口が体が動かせなくなる。沈黙にまた一層胸が恐怖でヒュッってなって震える口を動かしてギリギリでばらばらと言葉の塊を吐き出しても誰にも何も伝えられないし読み取られない。諦観蔑視軽視叱責嫌悪無関心。でも全部自業自得で自分が下手で怠け者だから駄目で他人責めることも落ち込むことも考え込むことも間違ってる。お前はただ反省して直せよ、それ以外許されるべきじゃない。直せない。大抵誰だって直そうと思えば直せる。でも思わないし直せない。当たり前を出来ない糞だから見下されて馬鹿にされて当然だし自分が悪い。責められるべきは自分でそれ以外何もない。だからこの糞みたいな自分の存在が悪い。この価値が分からない。この生の価値が分からない。なぜ今まで生きて来たのかよく分からない。何でこんな糞以下の人間が生きてるんだろ気持ち悪い。こういう物言いが本当に気持ち悪い。大袈裟に書き連ねて落ち込んで見せてそんな価値も資格もない癖に気持ち悪い。気持ち悪いとか強い言葉で自分を痛めつけようとする癖もいい加減にしてほしい。どうせ本心じゃない。いい加減にしろなんて思ってない。悲劇のヒロイン気取って悦に入ってるだけだから相変わらずキモい。何で生きてるの?死ねばいいのに。